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ごきげんよう、ジジです。

あなたのまわりに、自己顕示欲の強い人はいますか?

ずっといっしょにいると、なんだか疲れてしまいそうですが、今回は、そんな自己顕示欲の強い人の特徴について、まとめてみたいと思います。

 

自己顕示欲とは

自己顕示欲とは、簡単に言うと、自分という存在をたくさんの人にアピールしたい、とにかく目立ちたい、注目されたい!という心理的欲求です。

人のことなので放っておけばいいのですが、なんせその欲求が抜きんでて強いために、周囲をうんざりさせることもあるでしょう。

裏を返せば、いつも周囲に認められていないと気がすまない、でなければ逆に不安すら感じるという、心の弱さ、幼稚さの表れともいえます。

人一倍のかまってちゃんで、寂しがりやな一面があることは明らかで、承認欲求も強いですね。

自己顕示欲が強い人の特徴<その1>

自己顕示欲の強い人は、とにかく、他人の自分に対する評価を知りたがります。

自分がどう思われているかが気になるので、特に狙っている異性に対しては、「俺のこと気になる?」と何度も問いかけることがあるでしょう。

決して「あなたのことが気になる」とは言いません。

自分が相手をどう思っているのかを伝える前に、まず相手の意志を確認したがります。

もしも相手が、自分に対して否定的な感情を抱くか、あるいは無関心であれば、間違っても自分からアタックすることはプライドが許さないので、まずは石橋をたたいて渡るという慎重さを発揮し、相手の意志を確認したうえで行動する。

とにかく、常に相手の感情を意識して、自分が恥をかくことのないよう立ち回ります。

特徴<その2>

自己顕示欲の強い人は、とにかく自慢が大好き

身に着けるバッグや時計、服、あるいは乗っている車やバイク、そして自分の持っているスキルや特技などを、これでもかと披露したがります。

SNSなんかも活用して、自慢の品々をアップ、ポジティブコメントがつけばつくほど喜びます。

彼らにとっては、自分の世界だけで自己満足に浸るということはあり得ない。人に見せて、評価されることで、はじめて満足感を得ることができるのです。

しかし実は、自分に対する自信の無さからくる行動であるともいえます。

本当に自信のある人は、人からの評価など、いちいち気にする必要はありませんから。

だけど本人はプライド(チンケなプライドですが)のかたまりなので、そんなこと絶対に認めたがりません。

特徴<その3>

自己顕示欲の強い人は、負けず嫌いでもあります。

他人が自分より高く評価されるのは気に食わない。常に自分が一番でなくては気がすみません。

そういう気持ちが表に出るので、話し方もえらそうに上から目線だったり、他人を褒めるということがあまりなく、逆にバカにして見下したりもします。

だけど相手が本当にエライ人や、有名人だったりすると、今度はその人と仲良しアピールをはじめます。

ともかく他人から賞賛されるなら、なんでもよいのです。

まとめ

私のまわりに実際にいる、自己顕示欲の強い人について、いくつか特徴をあげてみましたが、いかがだったでしょうか?

あなたのまわりにいる人との、共通点はありましたか?

こういう人たちとつきあうのは、なかなか根気がいるし、よほど仲の良い友人でなければ、しんどいかもしれません。

私の場合は、てきとーに「あーすごいねーヨカッタネー」といいつつ、必要最低限にしか関わらないようにしてます。

彼らに対して我々が対処できることがあるとしたら、「自分はあんなふうにならないようにしよう」と、反面教師にすることくらいですね!

 

こんにちは、ジジです。

トイレの自動洗浄機能、流し忘れないのはいいけど、流れるタイミングが早くないですか?

こう感じるのは、私だけ??

私は、用を足すと、立ち上がって、トイレットペーパーで拭くんだけど、みんな座ったまま拭くのかな?

でも小はともかく、大の場合、座ったままおしりを拭くという、高度に器用なこと、できる人いるの?

ということで、トイレの自動洗浄機能についての考察です。

 

自動洗浄はかえって不便?!

トイレに座って、また立ち上がったとたんに、容赦なく流れる水・・。

自動洗浄の場合、トイレットペーパーを手に取って、拭こうと立ち上がった瞬間に、ザーっと水が勝手に流れるので、私は毎回ペーパーを流しそこねるのです。

拭き終わって、ペーパーをトイレに投げ入れた後に流れてくれればいいのに。

おかげで毎回二度流しせざるを得ず、節水にもならないし、手間だわ。

だから自宅では絶対、自動洗浄装置トイレなんて使わないぞ、と思っています。

だいたい、自分の健康状態を知るには、便をチェックせよとかいうけど、立ち上がると同時に水が流れてしまえば、それもできないじゃないか。

最近は、駅の構内やレストランなど、自動洗浄に設定しているところも多いから、自分で調整もできない。

便利なはずなのに、逆に不便を感じることもしばしばです。

みんな、いったいどのタイミングで拭いて、流しているのかなあ・・と、とても気になります。

それともこんな不器用なのは私だけで、他の人は座ったままちゃんと拭けて、立ち上がったとたん、流れる水の音を優雅に聴きながら、下着をあげてトイレを後にする、という技ができているというのでしょうか?

そんな方法があるならぜひとも教わりたいものです。

なぜ、自動洗浄がデフォルトになってきたのか

 

思えば、自動洗浄が当たり前のようになってきた背景には、昨今の日本国内の事情が変わってきているから、とも考えられます。

それは、移民の増加と、高齢化。

これだけ日本に来る移民も多くなれば、トイレを流す習慣すら身についてない人や(そもそも外国にはトイレットペーパーを使わない国のある)、高齢化で、物忘れからついつい流し忘れる人も多くなっている以上、次に使う人が気持ちよく使えるために、自動洗浄という方法を編み出した、ととることもできますね。

公共のトイレで四六時中清掃員がいるわけでもないし、流し忘れの汚いトイレを見ることが増え、苦情が相次いだということも考えられます。

こうなると、自動洗浄機能は日本の企業が考えた末の、苦肉の策ともいえましょう。

まとめ

昔の和式ボットン便所から水洗になり、様式も加わって、トイレ事情はたいへん清潔に、使いやすくなりました。

さらに自動洗浄機能も加わって、まさに至れりつくせり、そのうち自動お尻拭き機能すらついてくるかもしれません。

世の中が便利になっていくのはいいことだけど、自分で考え、手を動かす必要がなくなってきたら、脳もどんどん退化していく気もします。

自分の排せつ物まで、勝手にきれいにしてくれる機械の恩恵を享受するのはいいですが・・立ち上がったとたん、高速でお尻を拭いて流さなければ、自動洗浄の速さには到底追いつけません。

拭き終わったトイレットペーパーを手に、有無をいわさず流れるトイレの水を見て、毎回悔しい思いをする私。

それでも、将来おばあちゃんになって、物忘れがひどくなったら、この機能に感謝する日がくるのかも・・なんて思う今日このごろです。

 

こんにちは、ジジです。

 

ここ数年、巷では「小顔」がもてはやされて久しいですね。

 

小顔は美人の条件であり、骨まで切って輪郭を小さくする整形手術をする人も増えているようです。

 

私が学生のころなんか、今のように、小顔がどうのこーのといった風潮などありませんでした。

 

美人であるかないかは気にしても、誰も顔の大小なんか気にしなかった。

 

それが、ここ数年で、いっぺんに「小顔」というキーワードが蔓延してきたように感じます。いったいなぜでしょうか?

 

「小顔」ブームのはじまり

 

よく「小顔」といわれる安室奈美恵さんが出てきたころ、彼女がもてはやされたのは、歌手としての魅力であって、決して顔が小さいからという理由だけではなかったように思います。

 

むしろ彼女が小顔といっても、誰もあまりそこに焦点を当てなかった。

 

ただ、時代が進むにしたがって、日本人の体形も欧米化し、手足が長く顔の小さい人が増えていった。

 

彼らがすこしずつ増加し、メディアに露出するようになると、顔の大きい人と小さい人の比較がしやすくなったのでしょう。

 

同じ背丈でも、並んでみると、顔が小さいほうが身長も高く見えるし、見栄えがよい。

 

それにメディアが便乗し、「小顔」というキーワードをあらゆるところで使用した。

 

結果、これだけ小顔がもてはやされるようになりました。

ネットを見ると、芸能人の誰々の顔の大きさを比較したり、縦横何センチ何ミリとかコト細かい計測結果まで公表、一般人でも、いちいち自分が平均より大きいのか小さいのかを気にして、Yahoo知恵袋でお伺いを立てているしまつ。

 

そして、顔の大小で人格まで否定されるかのような、いわれのない誹謗中傷がはびこっています。

 

こんなくだらない事象が起こるのは、日本、韓国、あとは考えられるところ中国くらいではないでしょうか。

 

欧米などではみんなが頭も顔も小さいけど、それでも比較すれば大小はあります。だけど誰もそんなこと気にしない。というかそんなところに意識すらいきません。

 

アジア圏はまだまだ、とくに女性に対する容姿へのこだわりや要求が尋常でなく、ほとんどビョーキの域。それに対して当の女性は怒ることも抗議することもなく、必死になって、同じように追随しようとしています。

 

SNSが小顔信仰を加速させる

 

小顔ブームの下地が出来上がったところで、スマートフォンの普及率増加に伴い、素人でもSNSなど、ネット上に自撮りをばんばんアップするようになりました。

 

そこでは、自撮りを加工できるアプリも活用され、顔を小さく、目を大きく、肌は白く、実物とはまったく違う人物に仕立て上げることも可能になりました。

 

そうすると、余計に小顔信仰は加速します。

 

加工せずに写真をアップしようものなら、ブスだの顔でかだの、心ない言葉を投げつけられる可能性があるからです。

 

加工なしではとても人に見せられない写真=本来の自分なわけですが、それよりも加工しまくった写真のほうがウケがいい。

 

メディアとSNSと、日本人が本来持っている「他人の目を気にしすぎる」性質が、小顔信仰をつくった。

しかし、いいかげんこれにうんざり、辟易している人は、私だけではないはずです。

 

顔の大小で他人を比較・評価するということ自体、おかしいと思わない人のほうがおかしい。

 

確かに顔が小さいほうが、見た目のバランスがよいかもしれませんが、見られるのが仕事の芸能人ならともかく、一般人にまでその価値観を押しつけようとしてくるのは度が過ぎているし、まして人を悪くいうのは言語道断です。

 

まとめ

 

私はとくに顔が大きくも小さくもない、ふつうの平均的アジア人の顔をしていると思います。

 

だけどこのあほらしい小顔信仰によって、自分が誰かと比較されたりするのはごめんだし、誰もそんなこと望んでませんよね?

 

容姿について優劣を決めること、もうやめませんか?

 

骨格がみな違うのは当たり前。それを、みな同じようにこうあるべきだという基準をつくって、個人の個性を完全に無視するか、貶める・・こんな社会を許していいんですか?これは、小顔だけでなく、今の日本で起こっている悪しき慣習すべてにあてはまりますよ。

評価されてしかるべきなのは、容姿など関係なく、人にやさしくできる人でしょう。

 

小顔信仰によって傷つく人、自分を偽らなければいけない人は、メディアが作り出した美しさの条件に振り回されているにすぎません。

 

押し付けられた価値観には、No!といいましょう。

 

もっともっと大切なことに、価値を見出せる世の中になってほしいものです。

 

 

 

 

 

 

こんにちは、ジジです。

今回は、「神さま」について語りたいと思います。

英語で神、GODというと、キリスト教に限定されがちですが、ここではあらゆる宗教の神や、神という概念について、考えていきます。

神とはなにか?

あなたには、信じている神がいますか?

キリスト教、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教、あるいは新興宗教など・・それぞれ、異なる神を崇めています。

世の中、宗教の数だけ、神がいるということになりますね。

それは過去に実在した人物であったり、架空の想像であったり、新興宗教に至っては、実際に現時点で生きている人間であったりと様々ですが、どの神も、信者にとっては最大の心の拠りどころであり、生き方に指針を与え、人生を左右させうる大きな存在に違いありません。

いつでもどこでも、どんな自分でも受け入れて、救いの手を差し伸べてくれる・・人にとって、神とは、そんな大きな心の支えです。

私にとっての「神」

さて、私の信じる神とは、何か。

結論からいうと、ずばり「自然」や「宇宙」です。

昔でいう山岳信仰、アニミズムに近いですね。

まず私にとっての神とは、人の形をしていません。

キリストやブッダは、人の形をとって生まれてきて、神に近い存在やその一部分ではあるかもしれませんが、神そのものではないと思ってます。

死んでからは本物の神様になったかもしれないけど、この世に肉体をもって生まれてきて、生老病死苦にさいなまれている以上、神というよりはまだ人間に近いなと。

むしろ彼らでさえ、もっと上の存在の神によってつくられたと考えてます。

ただ、仏教の輪廻転生という概念は、共感というか賛成はしています。

肉体は死んでも魂は生き続け、その同じ魂が、今度は別の肉体に入って、また生を得る・・というのが輪廻転生の教えですが、生まれる前から記憶がある赤ちゃんの話や、行ったことがない場所なのに懐かしく感じるといった事象は、魂の転生なくしては説明がつきません。

ともかく、私の考える神とは、すべての神々をひとつにしたものであり、また同時にそのどれでもない、創造主であり、地球の自然の中に溶け込んでいる、というイメージです。

だから、例えば山や海に行ってゴミをポイ捨てとか、あり得ません。神聖な場所を穢すことになるし、たとえ周りに人ひとりいなくても、この所業を神様が見ていると思うと、恥知らずな行いはできないのです。

逆に、神様が見ていると思えば、だれが見ていなくても、ひそかに善行を行うことも、喜びになる。

あなたは、なぜ夕日があんなに美しいのか、草木や花が、なぜあんなに色鮮やかなのか、考えたことはありますか?

また、人間を含め、あらゆる動物たちの、完璧に無駄のない生体システム、細胞ひとつひとつが、偶然できたとは思えない精巧さと緻密さで構成され、見た目も非常に美しい。これが、神の御業でなくてなんなのか。

うちには猫がいますが、耳の先からしっぽの先まで、なぜこんなに美しい生き物が存在するのかと、見とれるときもあります。

整形なんかしなくとも、生まれたときから完璧に美しい彼らを見ても、やはり神の存在を感じずにはいられません。

猫じゃなくても、道端にいるハトやスズメ、昆虫だってそうです。

私はそこに、自然の中にある、創造主の愛を感じるのです。

べつに夕日がグレーでも、花がすべて真っ黒でも、猫が全く可愛くなくても、実質支障はないはずなのに、それをこれだけ美しくしてしまうのは、愛情がなければできない、と思うのです。

愛がなければ神とはいえない

その一方で、宗教という名のもとに、信者からカネをごっそり集めて贅沢三昧し、自分は生き神だと名乗る連中がいることに、憤りを感じます。

彼らがやることはいつも同じ、心が弱って不安で満たされている人に声をかけ、これを信じれば救われると言う。

人間は弱いから、騙されてしまう・・だけど思い出してほしいのです。

本当の神は、もっとすぐ近くに、常にいる。自然や宇宙の中にいるのです。

高いカネはらって、教会だのお寺だの精舎だのに行く必要など、まったくないのです。

だいたい、キリストやブッダが、人々の前で説法するとき、講演料や入場料を払えなんて言ったと思いますか?

偉大な聖人や宗教家というのは、みんな清貧で、大いなる神に導かれながら、ただただ人々のために、身を粉にして尽くしてきたはずです。

それは、愛がなくてはできない行為です。

だからこそ尊敬され、崇められてきたのでしょう。

それに対して今の宗教家は、愛は愛でも、自分にたいする自己愛のほうが強いようです。

 

まとめ

昔の人は、自然を畏れ、自然の中にこそ神を見出した。

我々も、それにならうべきではないでしょうか。

科学の目覚ましい発達といっても、髪の毛一本、ゼロから作り出すことなど、人間には到底できません。

それを成してしまえるのが神であり、この世にあるすべての生命は、神の意志によってつくられてきたのだ、と思います。

私にはたいした霊感などありませんが、なにか特別な力を感じる敏感さは、持ち合わせていると思っています。

だからこそ、人間の思惑が入りすぎて、誤解釈されたり、本来の教えとは違う方向へゆがめられてきた既存の宗教には違和感しかないし、まして信者をカネヅルにしている宗教には嫌悪感しかありません。

自分の心が弱ったとき、一度そういう宗教にはまりそうになった経験があるから、よけいに理解できます。

人間がつくる宗教には限界があり、たくさんの人々が長年にわたってかかわる以上、開祖の教えを純粋なまま維持することすら、不可能です。

ならば、もっと身近で大きな存在に気付き、ひそかに祈ることのほうが、よほど建設的だし、他人に毒されない、自分の考えを強く持てるのではないでしょうか。

常に自然の中にいる神様に感謝し、今の自分が恵まれていることに気付くことが、大切だと思います。

 

日本に中国人・韓国人をはじめとする東南アジアからの観光客や移民が押し寄せて久しいですね。

 

残念ながら、一部の中国人をはじめとする外国人観光客のマナーは、文字通り最悪というしかなく、日本だけでなく世界中から非難を浴びているにもかかわらず、一向に反省の色はありません。

そんな観光客について、最近、気がついたことがあります。

それは彼らの見た目、ファッションです。

ここではとくに、現在、数的には最も多く日本に来ているであろう中国からの若い女性について、言及してみます。(とにかく大声で話すという特徴からも、中国人と明確に判断できるので、言及しやすいですしね・・)

中国人のファッションに変化が?

ひと昔前、といっても、まだ2.3年前くらいだと思いますが、街ゆく中国人をみて、皆さんわりとすぐに、「日本人ではない」と判断できませんでしたか?

顔ははっきりいって、同じアジア人なので、黙っていれば、日本人なのか中国人なのか、区別がつけにくいことはあります。

だけど彼らのメイクやファッションを見ると、あきらかに違う。

そう。中国人は、日本人が普通は敬遠しがちな、蛍光ショッキングピンクなど派手な色・柄の服を身に着けていることが多かったのです。

これはもう好みの問題だと思いますが、とにかく日本人なら決して選ばない配色や、デザインの服装をしている中国人を、たくさん見かけました。

ところが最近、そんな人たちがめっきり減って、見た目のファッションだけでは、日本人なのか中国人なのか、分かりかねる現象が起きています。

つまり、彼ら(中国人)が、日本の女性のファッションをまねて、似たようなものをチョイスするようになってきた、ということです。

今やデパートの化粧品売り場を見れば、中国人客だらけ。

SK-2やsuqquなど、日本のメーカーの化粧品を買いあさっており、店側も中国語の話せる中国人スタッフを大量投入しています。

日本のメーカーのクオリティが中国人にウケてることは、いうまでもありませんね。

そしてメイクとくれば、当然婦人服売り場にも中国人客は流れる。

中国人女性が何枚もの服を大人買いしているのを、いろいろな売り場で何度も見たことがあります。

中には、メモ用紙に目当ての服の商品番号か何かをメモして、店員に見せながら、ひとつひとつ問い合わせている人もいました。

インターネットかなにかで、中国にいるときに、欲しい服を事前にチェックしていたのでしょう。

いずれにせよ、もう蛍光カラーや中国ファッションは、おしゃれに敏感な中国女性にとってはダサい以外の何物でもなくなったのか、日本のかわいい系カジュアルファッションを、彼女たちも率先してまとうようになったのです。

日本女性と中国女性の区別がつきにくくなった

結果的に、もう最近、ふつうに歩いているところをみるだけでは、中国人なのかどうか判別するのがとても難しくなりました。

別に本人たちの好きな服を着たらいいし、日本のファッションが受け入れられてるなら、結構なことです。

しかし、そこに私は、なにやら得体の知れない、薄気味悪さを感じます。

日本に押し寄せる観光客が、中国人の見た目が、どんどん日本人化してくる。

日本のメイクとファッションに身を包み、しかし中身はそのまま、他人に気遣いできない、迷惑行為を平気でする中国人のままです。

また、ある人から、最近中国では、子供に「ミホ」や「カオリ」など、日本風の名前をつける人が出てきたとききました。

日本人の人口自体が減っている今、もはや将来は完全に、日本は中国化してしまうのではないか??と、懸念さえしています。

安部政権が、大量移民ウェルカム政策を実行し、バナナのたたき売りのごとく、この国を食いつぶそうとしてるしね。

まとめ

私は決して、中国人をはじめとする外国人のすべてが悪いといっているわけではありません。

中国や台湾など、アジア各国に知り合いがいますが、いい人ももちろんたくさんいます。

ただし、私の友人である彼らは長く日本に住み、先進国における常識的態度やふるまいを、身に着けた人たちです。

正直、電車に乗るとき並ぶという、基本的なことも全くできない、日常的にマナーの悪さを見せつけてくる観光客に関して言えば、友人になれそうな気は1ミリもしません。

たかがファッション・・だけどそこから垣間見える、将来におこりうる、不気味な脅威を、感じずにはいられませんでした。

 

 

 

こんにちは、ジジです。

もうこれ以上悪くなりようがないほど超ど近眼な私。

メガネかコンタクトがないと、近くにいる人の顔さえ分別できない。

同じ近眼の人ならわかってもらえるだろうこの気持ち・・

子どものときの仮性近視から始まり、中学生になるころにはメガネが必須になり、高校生にあがるとコンタクトを使い始め、裸眼で過ごすときなんか風呂か寝るときくらいしかなかった。

その上ドライアイになってしまったもんだから、コンタクトも乾燥してる時期は辛くてなかなかつけられない。

ド近眼なもんだから、メガネはぶ厚く重く、スリムで軽いフレームにレンズをつけようものなら、必ずフレームの縁からはみ出るほど。

そして夏のメガネは汗ですべって不快しかない。

もーいやだ!ド近眼なんてめんどくさすぎる、なんとかしてくれ~~っと思った矢先に、でてきた近視矯正手術・レーシック。

そんな魔法のような手術があるのか?!と、知ったときには衝撃だった。

これぞ救世主とばかりに、さっそく眼科へ行き、手術を受けたいと行ってレーシックやりまくってる病院を紹介してもらい、手術する担当医に会って、術前検査の予約までしていた。

が、気がかわった。

今回は、なぜあんなにも待望していたレーシックを、途中であきらめるにいたったのか、その理由をシェアしていきたいと思います!

結論からいうと、怖気づいた(ヘタレ)

そう、つまるところよくよーく考えていくうち・・・

はっきり言って、私は怖くなったのです。

一生使う目のこと。替えはきかないし、失敗も許されない。

手術自体は、至極かんたん。角膜をちょっとばかしレーザーで削って薄くするだけ。

やり方は単純だし、病院も信頼のおけるところとお見受けしていた。

担当医からはもちろん、レーシックのメリット・デメリットは説明されていた。それでも、やはりメリットの方が大きいと踏んでいた。

だけどその日が近づくにつれ、私はなんか、どうしようもなく不安になってしまった。

説明されていたデメリットも含め、それ以外にもなにかあるのでは?と思うようになってしまった。

そこで、他の病院にも行って、できるだけたくさんの先生の意見を聞いてみることにした。

結果、自分の目の状況やらを考慮して、手術を思いとどまったのでした。

レーシックのデメリット

レーシックのメリットは、なんといっても近視が矯正できること!

もうメガネ、コンタクトをつける必要もないし、近視にまつわるあらゆる不便さから解放されることになる。

しかしその反面、担当医から聞かされていたデメリットは、夜間の運転時などに、車のライトなどがかなりまぶしく感じるようになる、ドライアイになり、目の渇きがひどくなる、といったことが主だった。

また、手術で視力自体は改善されるが、極端に(例えば0.001が1.5などに)目が良く見えるようになる保証はなく、実際やってみるまではどれくらいよくなるかはわからない。人によっても違うから。

ここで私のように、もうすでにドライアイである人は、かなり考えてしまうだろう。

すでに渇きがちな目が、手術によってもっと渇くことになり、うるおい対策の目薬は必携になる。

メガネからは解放されるだろうが、別のわずらわしさが出てきてしまう。

夜間のドライブがまぶしく感じられることはまあ我慢できるとして、さらなるドライアイと、脱ド近眼を天秤にかけたときは、けっこう悩んだ。

でも、やっぱりそれでも、脱メガネに軍配があがるかな~??と考えていたが、ここでさらに考えなくてはならないデメリットがあることを知る羽目になる。

近視が治っても一生モノじゃないかも?!

レーシックで良く見える視力を手にいれて、これがずっと、死ぬまでこの状態を保てるかといえば、そんな保障はないという・・。

近視が治っても、年をとれば老眼にもなる。

そして老眼以前に、いったん良くなった視力が、また元の近視に戻ってしまう「後戻り現象」が起こる場合もあるというのだ。

しかも、後戻りが起こると、またメガネやコンタクトで矯正しなくてはならなくなる・・手術したのによ??

おまけに、削って薄くなってしまった角膜はもとに戻せない

ふつうは、角膜は横から見たとき、まあるい球体を描いているが、手術後は角膜の一番高い部分がわずかに平坦な形に変わる。

そのため、また術後に新たにコンタクトしようとしても、削られた角膜の形に合うコンタクトが市販では無いのだ。

つまり、特注で自分の目の形に合うコンタクトをつくらねばならず、ふつうによく流通しているコンタクトを買うよりも割高になる。

もちろん保険は効かない・・。

私が相談に行った眼科医はコンタクトに関しても詳しい人であるが、実際にレーシック後、視力の後戻りを起こしてしまい、困っている人もいるので、「レーシックはやめた方が無難」とアドバイスをくれたのだった。

近視だけに留まらない、目の病気

また、ある先生は白内障の手術の名医で、この先生の意見も聞くことができた。

レーシックは比較的新しい手術であり、まだ不確定な要素があること。

そして、老化に伴う白内障や緑内障、あるいは網膜剥離など、目の疾患はいろいろあるが、将来自分がこうした病気になった時、レーシックによって変形した角膜が手術にどう影響を及ぼすのかということも未知数なのだ。

この先生の個人的意見も、「レーシックは慎重に」という結論だった。

眼科医でも目の悪い人っていっぱいて、ほんとにレーシックが欠点のない手術なら、その人たちのほとんどがやるんだろうけど、実際そんなにいなさそう。

レーシックに関しては、他の疾患みたいに絶対必要な手術というわけじゃないから、同じ眼科医でも意見が分かれるところやね。

まとめ

レーシックをすると・・

ドライアイが今よりひどくなる可能性。

視力の後戻りがある可能性。

そして、他の目の病気になったとき、治療に差しさわりがある可能性。

・・以上のことを考慮した結果、私は手術をあきらめました。

もちろんレーシックをして快適に過ごしてる人もたくさんいるだろうから、結局はやってみなきゃわからないんだけど、その「やってみなきゃわからない」ところに、怖さを感じたわけです

だって、一度削った角膜は、もとにもどせないんだから。

これが何回も再生可能なものなら、やってたかもしれないけど、ふたつしかない目、死ぬまでこれを酷使させてもらうんだから、大切にしないとな。

それに、将来、もっともっとリスクが低くて安全性の高い技術が出てくる可能性もあるし。

もしレーシックをやろうとしてる人がいたら、こういうデメリットがあること、知っていてほしい。

最終的にはご自由に。でも、知らなかった!って後悔することのないように。

 

 

ジジです。

アラフォーともなれば、お肌の曲り角やらとっくに超えている時期で、「おばさん」という言葉でひとくくりにされ、かといって中身は若い頃とたいして変わっているわけではないので、いつのまにやら変わる周囲の自分に対する扱いに戸惑うころですね。

もう「ガール」と呼ばれなくなって久しい自分。でも気持ちはまだあのころのまま・・だけど、日々じわじわと、「老い」の兆候は無音でせまりくる。

ある日あるとき、今まで意識しなかったココロとカラダの変化にハッと気づいた瞬間、「ああ、私も年取ったなあ~・・」と実感する。

人間生まれたときからすでに老化は始まっている。だれでも最終的にいきつく先は死なんだから、経年変化はごく自然な、当然のこと。

でもやっぱり、切なくなるし、寂しいし、ちょい凹む。

そんなやるせない思いを、シェアしていきたいと思います。

白髪を発見したとき

若いころ、果たしてどれだけの女子が、まさか白髪に悩まされる日がくると想像しただろうか。

母親が毎日、洗面所でビゲンやらなんやらを使って白髪をいっしょうけんめい染めていた気持ちが、今ならよくわかる。

人にもよるが、額から耳のあたりにかけてのはえぎわ、もみあげの部分など、顔まわりや頭のてっぺんなどに、とくに多く生えてくるやつら。

髪をおろしているときはわかりにくいけど、アップにしたり掻き上げたときに、白いキラキラが見えると、「あーーっ?!」ってなる。

しかもこいつらは、下ろした髪の下にかくれて、本人の気づかぬうちに、いつの間にかものすごいスピードで増えていくので、見つけたときのショックがでかい。

その上、白髪が生えているという事実を直視したくないもんだから、白髪染めとか使いたくないと悪あがきを試みるが、おしゃれ染めではもはや染まらないことがわかってからようやくこの事実を受け入れはじめる。これがまたツラい。

ようやくあきらめて白髪染めを駆使するわけだが、一回染めても一か月と経たないうちにまた白いのが生えてくるもんだから、黒い髪との境目が目立ってきて、よけい汚らしく見えてしまう。この事実にまたげんなりする。

茶髪にしていたときより、美容院にひんぱんにいかないと行けない状況になるので、よけい金はかかるし時間もかかる。

かといって家で染めようとすれば、髪も地肌ももっと痛むし、まんべんなくきれいに染めるにはそれなりのテクニックがいる。(ちなみに私は超ヘタじゃ)

見えるとこならまだいいけど、頭の後ろ側とか襟足のとこに白髪が多く生えるタイプの人は、もっと大変だ。

女性は見た目若く見られたい人が多いけど、白髪があるかないかでは大きな違い。真っ黒と真っ白じゃ、同じ顔でも見た目年齢が10歳は違ってくるだろう。

だからみんな必死にかくすのだ。

親の遺伝で、50すぎてもまだまだ髪が黒いままの人もいるけど、うらやましくて仕方ないですわ。

指の油分が少なくなったと感じたとき。

紙をペラペラめくる、ぴっちり閉じられたビニール袋を開けるといったことをしようとしても、つるつるすべってちっともうまく開けられない・・なんでやねん?!と思ったら、指の油分がないために、摩擦力がゼロ近くなっているのでした・・

子どものときなんか、指の油分なんか過剰なほどあって、むしろおばあちゃんのサラサラ乾いた手が気持ちよく感じていた。自分の手や指って、なんでこんなにぺったりしてんだろ?と、若干きもちわるくなっていたほど。もちろん紙なんかめくり放題、ビニールなんか開け放題だった

だけど今は、そのときあこがれてたおばーちゃんのサラサラ手に、徐々に近づきつつあるのを感じる・・まさかこれがそれほど恐ろしく感じる日が来ようとは想像もせんかったわ。

指先の油分がなくなると、紙めくりクリームやらゴム製の指にはめるやつとか使わないといけなくなるやん?地味にめんどくせーやん?(泣

そして、若い頃はなかった横線のようなものが指先に現れ始め、細かいシワができて、日々深くなっていくのを目の当たりにする。

ハンドクリームが手放せなくなり、冬は手袋が必需品になる。

これは手でなく、実際足にも現れはじめる。子どもの足の裏って、ぺったぺったと床に張り付く感じだが、油分のなくなった足はサラっとすべる感じなのだ。

あれほどきもちわるいと思ってた油分が、今はほしいぜ・・

徹夜できなくなったとき

学生のころ、中間やら期末やらで一夜漬けをしょちゅうしていた。

あのころは眠気や疲れなんか、今ほど感じなかった気がする。

テストって、一日で終わるわけじゃなく、1週間ほど続けてあったけど、そのうち夜更かしや徹夜を連日することになっても、たいしたことなかった。

今、そんなこととてもできない。

徹夜どころか、夜中12時を過ぎて、一時、二時、三時になるころにはもう、頭がぼーっとしてフラフラになってくる。

もともと体があまり丈夫じゃないってのもあるんだろうけど、夜更かしは体に悪いってこと、若さでカバーできていたからまったくわかっていなかった。

行きつけの鍼灸院の先生も、夜中3時すぎると内臓・とくに肝臓の解毒作用が著しく落ちるからダメって言ってたけど、肝臓に限らずあらゆるところが悪くなりそう。

徹夜や、夜中まで遊んだり・・っていうことができなくなって、体に無理がきかなくなるって、実感したときは、やっぱりさみしい。

TVゲームに興味がなくなったとき

ファイナルファンタジーシリーズやらマリオやらその他ギャルゲーまで・・

ゲームで何時間でも遊べていたし、大好きではまりまくっていたあの頃の私はもういない。

とにかくまったく興味がわかなくなった。

ゲームをしている時間が、なんかすごくもったいなく感じてくる。

ただテレビの前に座って、夜中や夜明けまでゲームの世界に没頭し、気づけば休日が終わってる・・

こんなもったいない時間の使い方ってアルの?と思うようになってしまった。

これって、もう残り少ない人生の時間を、ひしひし感じ始めているから??

若い頃は、まるで永遠にこのときがあるかのような、錯覚をしていたから?

ゲームやって何が得られるかといったら、それに関する日常生活にまったく応用できない、役に立てない知識だけ。

テレビ画面に夢中になって、ゲームの主人公になれる時間は幻なんだ。

だから、もう幻に費やす時間を無駄にしたくない。

とか思うようになったら、時間が永遠にあるかのような若いころの自分とはやっぱり違うことがわかる。

あらゆる「丈」を気にするようになったとき

そで丈、スカート丈、パンツ丈・・とにかく身に着けるものの丈を、気にするようになった。

若い時は、ミニスカートだろうがショーパンだろうが、いちいち考えることなく、自分の好きなものを着ていた。

10代なんか、どんなに露出が多くても、許されている時期だったといえる。(むしろ歓迎されていたか??)

でも、年をとれば、膝の上、ひじなど関節部分に極端にしわやたるみが現れて、堂々と肌を見せることが難しくなる。

年齢をムシして無理に丈が短いものを着ると、なんか下品な印象しかなくなってしまうのだ。

スカートは膝上よりは膝下、そで丈は5分や7分でフワッとひじが隠れるもの、ショーパンなんて言語道断とんでもない。悲しいかなこれが現実。

着るものに制限ができたということは、選択肢が狭まったということ。

こういうときにも、年齢を重ねることの切なさというのは、ある。

まとめ

私は決して、年を取ることに否定的なわけではないけど、こうしてみていくと、若い頃は考える必要がなかったことがいっぱい出てきて、ゆううつになるときがある。

かといって、また若い頃に戻りたいかと問われれば、全力でNOという。

また同じ苦しい思いをしたくないし、そういうのを乗り越えて今があるわけだから。

でも、精神の老いなんてないのに、ちょっとした体の変化など、見てわかる部分には老いが迫っていて、果たしていつまで一人旅に行けるのだろう、いつまで歩いて散歩に行ったり、ドライブなんかできるのだろう・・と考えると不安になることは、ある。

でも、いつかみんなが通る道。

切ないけれど、この現実を認めて、ちょっとでも今の時間を楽しみたいなと思う。