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こんにちは、ジジです。

ごぼうの党奥野氏が、ボクシングの試合前の花束贈呈にさいして、アメリカ人ボクサーのメイウェザー氏の前で花束を落とし、拾わせたという出来事があった。

その後YouTubeやらメディアやらで騒ぎ立て、奥野氏を品性下劣などと批判する向きが多かったが、ここでは行いの良い悪いではなく、なぜそんなことをしたか?その目的は何なのかについて注目したい。

奥野氏についてはごぼうの党から立候補する前より、ラインタイムラインで知ってはいた。

この世界の仕組みや今回のコロナ茶番について知っている人なら、心から共感できる記事の内容で、中身の濃い発信をしていたと思う。

ごぼうの党としては国政にはいけなかったけど、これがきっかけで奥野氏を見知った人も多いだろう。

緊急事態要綱が憲法に追加されれば我々の自由と人権がなくなる、そのことに危機感を抱いている人も、彼の言い分はよく理解できるし支持できる。

そこへきて今回の事件。いいか悪いかでいえば確かにマナー違反ではあるが、おそらく、わざと炎上させてメディアの注目を集め、本来の目的である緊急事態条項について国民に周知させるための手段としてこの機会を利用したように見える。

奥野氏はバカじゃない、どころかそこらの洗脳されっぱなしの一般日本人よりはるかに賢いので、自分の行動がどのような結果を招くかよく理解したうえで今回の行動をとった。

このご時世、正攻法では名前を売ることにも限界があるしなんせ時間がない。

手っ取り早く自分の存在をメディアにのせて己の主張を知らしめるために、このような強硬手段に出た可能性が高い。選手には気の毒だが。

奥野氏の目論見は成功したといえるか?それはまだわからない。これはメリットもデメリットも大きい諸刃の刃だ。

個人的にはいささか懸念事項もある。

もし奥野氏が、味方ではなくい味方のふりした敵だったら?、ようするにあちら側の手ごまにすぎない場合もあるのだ。

テレビしか見ない、またはそれに関連したネット情報しか見ないB層はテレビにまかせておけばいいが、基本メディアは信じないA層を取り込むにはそれ相応の手順がいる。

かつて、憲法9条反対を声高に叫んでいたシールズなる学生団体すら、あちら側のしかけだったという話もある。

簡単に騙されてくれないA層を狙って、この人々を集め、最終的には何もさせないよう、偽のリーダー格を用意する。リーダーは一見こちらの味方だけど、裏で糸を引いているのは敵側かもしれないのだ。

奥野氏については、深い知識と言動は素晴らしいと思う反面、気になることもいくつかある。

ひとつは、彼が自身の出生について語ったとき、祖父が有力者で帝王学も学び、ロスチャイルド系の人とも交流があった、といったような内容を口にしたとき。

また、彼のタイムラインで、一度だけ、気にかかる表現もあった。支配層が、人口増加を抑制することについては致し方ない、といった見解のように受け取られ、おや?と思ったことがある。

彼の登場する対談動画でも、たいていは非常に好意的に観ていたのだが、対談相手ではなく進行役に対して、途中からそっけなく冷たくさえみえるやりとりがあった。

そのうえ彼は、自説を述べたあと「これをいうと陰謀論といわれる」と付け加えることが多々ある。あまりにも頻繁に言うので、ほんとに陰謀論と他者に思わせたいのかな?と思ってしまうことさえある。

実際人間の脳や潜在意識は、自分が今まで聞いたことのない情報を拒絶する傾向があって(認知的不協和)「奥野氏=陰謀論」として無意識に紐づけられる心配がないか?

私はこうしたことから、奥野氏を信じきれないところもある。それははっきりした根拠も乏しくてほとんど直感的なものなのだが、こういう素直な感覚ほど大切で、ときにどんな理屈より正しい答えを導くこともあるから怖い。

この直感がただの取り越し苦労で、はずれてくれたらそれが一番いい。強力な味方はひとりでも多い方がいいので、奥野氏が本当に日本のことを考える、頼もしいサムライだったらいい。

だけど、10年世の中のことを調べてきて、都合よくスーパーヒーローが現れるなんてことはないと知った。

だから、常に疑う気持ちも忘れちゃいけないし、信じてもこれが違うと感じたらすぐに方向転換することも必要だ。

奥野氏の今回の行動が、自分に注目させ、緊急事態条項を阻止するための手段なのか、はたまたそのように見せかけて、結局は「こんな品性のない横暴な人が緊急事態うんたらいっても全然説得力ないし」と思わせることが真の目的なのか・・注意深く見ていきたい。

ジジです。

久々の投稿になるけど、私はもうずっと怒っている。

今の世の中おかしいよ?!

おかしいと思わない人もおかしい。

その名も「新型コロナウィルス騒動」

どこも存在証明ができていないウィルスにみんながびびり、畏れ、意味のないマスクや感染対策に追われ、本来の人間らしい生活が脅かされている。もう二年も。

今回は、ブログではじめて自分の考えを吐露することにした。

 

①いつまで「新型」コロナなんだ??

もうこのコロナ茶番に関して、著名な人たちがネットで一所懸命見解を述べているから、細かいことははしょる。もうめんどい。

私はもう新コロウィルスが出始めたころから、ああこれはワクチンやらワクパスやらぶっこんで個人の人権奪いにかかってくるな、ということはおおかた予測していた。

べつに私が特別賢いからではない。これまでの流れや世界の支配層が目指しているゴール地点を鑑みれば、容易に予想できることだ。気づいてる人は大勢いた。(といっても日本では少数派で人口の1~2割)

そんで、今実際その通りになっている。

私は東北の大震災からこっち、テレビやメインストリームメディアは報道機関ではなく国民洗脳装置だということに気付いたので、こいつらは嘘ばっかり垂れ流し、真実を伝えなくて当たりまえだと認識している。

メディアがこの二年やってきたことといえば、ウィルスやワクチンがどんなものかを公平に正しく伝えるのではなく、ただ支配層の言うとおりに、新コロはエボラ並みの怖いウィルスでありワクチンは万能であるかのようなプロパガンダを垂れ流してきただけだ。

あのさ、RNAウィルスって2週間もたちゃあ変異すんのよ。

一か月後一年後とかもう無限にいろんなバージョンができてんのよ。しかもコロナウィルスなんて昔からあったわけで、それですら変異するんだから、そんなこといったら年中新型なんとかウィルスに私たちはさらされてきたわけでさ。

それをどうにかしておさえようという方が非科学的で無理無謀な話だし、事実、今までインフルやらなんやらいろんなウィルスがあちこちにいたけど、とくになにをするでもなく、共存してきたわけさ。

ところが今やなんか知らんけど「新コロ」といわれるもはや最初に出てきたものとは変化している「何か」だけが特別扱いされ、致死率がインフルや肺炎球菌よりはるかに低いにもかかわらず、まんぼうやらなんやらで経済活動を滞らせ、例年の超過死亡者が5万6万に増えるという事態に発展している今の現状、単純にくるっている、と思いませんかね??!

 

②「みんながやってるから」日本人の悪しき性質

ぶっちゃけ大げさではなく、マスクをやめればこの茶番プランデミックは本気で終わると思っている。

なんたってあちこちマスクをした人間が出歩くことによる、「今何か悪いものが流行っている」という心理的な視覚効果がすごい。

ウィルスという目に見えないものが、マスクによって間接的に視覚化されているといっていい。

この茶番を計画した人間は一般大衆をマインドコントロールする術をじゅうぶんに心得ているから、マスクが人に与える影響もよくわかっている。

考えてみて、もし今、一歩外に出てみんなマスクしてないと想像してみよう。

今までと変わらない普通の生活が瞬時に戻ってくるよ。

それくらいマスクの威力は恐ろしい。そして、もう説明するのも面倒だがマスクに感染予防効果などない。

ウィルスはマスクの網目なんて簡単に通れるほど小さいんだから。それどころかマスクをすることによる健康被害の方がヤバい。

科学的な検証も、マスクが効果なしといううことを証明している。

ではなぜ、日本人の99%がマスクをするのか?

それは「みんながやっているから」だ!

もし99%どころか、半分でも、マスクしてない群が歩いてみ?

「え?あれ?しなくていーの?だいじょぶなの?」という空気になるから。そんで連鎖的にみんな外すから。

はっきりいおう。いまのマスク社会で得をするのはマスク製造会社とそれにいっちょかみした政府の利権屋、そして顔をかくした方が美しく見えるブスとブサイクだけだ。

とくに子供にはなんのメリットもないが、マスクをつけさせる親はバカ親であり、強制する学校職員と一体になって子供の人生をめちゃくちゃにしている。

あかちゃんのときからマスクだらけの大人の中で育った子がまともな言語能力が身につくのか?

他人の表情やそれに伴う感情の変化を読み取ることができるのか?

はなはだ疑問だ。

 

③ワクチンという呼び名の得体の知れない毒

近所のワクチン接種会場で老人たちが列をなしていた。

三回目が始まった。もうこの期に及んでまだワクチンを有効だと思っている情弱はほっとくよ。

もう自分の周りの大切な人には布教してるけど、いくらいっても打ちたいやつは止める気はない。

けどそいつらに聞きたい。

その液体の中身を知っているのか?と。知らないでなぜ、安全だと確信できるのかと。

これはやっぱり政府やメディアにたいする信頼度と洗脳度合いによって違うのだろう。

私のように信頼度ゼロ人間だけが、従わずに己の信じる方向へかじ取りできるのだと思う。

けど、本当はみんなにワクチンなんて打ってほしくないよ。

だって、打つ人間が多ければ多いほど、この茶番プランデミックは終わらないし、多数派が少数派を圧倒して、人権無視できる大義名分が成り立つようにこの国がなっているから。

それとさ、「副反応」て言い方。これまでそんな言い回し聞いたことなかったけどどうなの??

これさ、「副作用」の場合、主語がその薬物だけど、「副反応」の主語て受けた側だよね。

つまり、薬を打たれた人間が副反応を起こしていて、薬そのものは関係ありませんよ的な印象操作だよこれ。また凄いね支配層は。凡人じゃ太刀打ちできない悪賢さよ。

つまり何があってもあんたの体の反応だからあんたの責任だよ私ら(製薬会社、政府、打った医者)には関係ないよ、ていう意味。

みんな当たり前に、周りが言い出すとふつーに副反応副反応いってるけど犠牲を払うことになるのは自分たち。ぜんぶ自分自身が招いた結果になる。

ちなみにさ、ワクチン無料PCR無料とかいってるけど、この世に無料なんてないてわかってる?

それみんな税金、みーんな、自分たちが後でツケ払うことになるのよ。

もうワクチン打ってない人には金返してほしい。てか有料にしたらどんだけの人が打つか??見ものだわ。

打たせたいからいまは「無料」て体にしてるの。おばかさんたち。そしてそれは、全部国民が代償を支払うことになってんの。わかる?

 

④結論、日本が変わるとしても一番最後

日本は変わらない。止まらない。

これまでの歴史をみても、何か問題がおきたとき、世界的にみても一番対処が遅く、またその対処を終了するのも一番遅い。

薬害問題でいうなら、たとえばサリドマイド。欧米諸国が重篤な副作用に気付いて販売をはやばやとストップした中、日本はその後も2,3年ほうっておいた。

その間に被害者は膨れ上がった。

この国は、その教訓をまったく生かせてない。それはなぜか?

自分の頭で考えることを放棄し、苦労して調べもせず疑いもせず、ただ政府とメディアの言うことが正しいと信じて従うからだよ。

日本人は民度が高い、と自分たちでは思っているかもしれない。とんでもない。民度じゃなく、奴隷気質の家畜という意味で畜度が高いの。

誰一人国のことを考えない政治家と、それについてなにも思わない国民のいる国は滅びる。

ジジです。

私は子どもの頃から、学校が嫌いで嫌いでしかたありませんでした。

小学校から始まり、中学、高校と、毎日学校に行くのが苦痛でしかたなかった。

べつにいじめられていたわけではないし、落ちこぼれてたわけでもないけど、

もともと集団行動が苦手な性格もあって、みんな同じような横並びの人間を量産するかのような学校という場所が、ひどく窮屈に感じていました。

今回は、学校のどういうところが嫌いだったか、について、当時を思い出しながら、話していきたいと思います。

 

①校則が嫌い

 

校則が好きな人はいないと思うが、何か理由があるなら納得も出来る。

でも、なぜこんな校則があるのか、理由を聞いても教師ですら答えられない、わからないものを、生徒に「ただ校則だから」という言い分で納得させようとするのがまるで理解できなかったです。

たとえば、中学時代、女子はロングヘアがだめで、髪は肩にかからないよう切る必要があった。

理由は不明。ただ校則でそう決まっていたので、強制的に女子はみんなショートへアか、短いボブを余儀なくされてました。

でも、それは一体、何の意味があったのか?

女生徒が髪を短くしなければいけないほどの、実質的で誰もが納得いく理由や必要性なんて、誰も説明できなかった。

あたりまえだよね、だってそんなもの最初からないんだから。

今現在、その校則はとっくに廃止されてるので、廃止できないほどの強力な理由や意味は無かったといわざるを得ないでしょう。

あと、靴下の長さや色、スニーカーは白でなければならないとか、学校で使うためにわざわざ新調しなければならなかった。

理由は、「校則で決まっていたから。」

校則をつくった本人も、突きつめれば理由がわからないような決まりごとが多く、いちいちそれに従わなければいけない理不尽さに、ただひたすら、子どもだった自分は苦しんでました。

②教師が嫌い

学校の教師というのは、だいたい社会人経験をつんでいません。

大学卒業して、すぐに教員として働き始めるパターンが多いので、ものすごい狭い視野しかもってないです。

今でこそ、モンスターペアレントやらで生徒と教師の立場が逆転してますが、私が学生だったときはまだまだ、教師の力が強かった。

今なら大問題になるような、虐待まがいのことを、どいつもこいつも平気でやってました。

授業中、突然大きな声で怒鳴っていた担任のせいで、私は今でも、大声で話す人に対してトラウマがあります。

その同じ教師から、やってもいないことで疑われ、濡れ衣を着せられて、放課後呼び出されたこともありました。

今でもそいつのやったことは忘れないし、反吐がでるほど嫌いです。

他にも、えこひいきはする、髪をひっぱる、手でたたく、といったことをする奴も、どこの学校にも最低一人はいるような時代だったと思います。

人格破綻していても、免許さえ取れば教師になれる。そしてそんな人間を雇い、子どもの教育を任せてしまえる学校という場所は、狂気の沙汰としか思えませんでした。

ジャーナリストの船瀬俊介さんが、「学校狂育」というのは、非常に的を得ています。

③個性を評価しないのが嫌い

学校という場所は集団行動でなりたってます。

それはそれでいいとして、なぜ何から何まで、あたりまえのように皆同じにさせようとするのか。

少しでも「普通と違う」とみなされると、徹底的にそこを攻撃され、皆と同じ行動をとるように指導される。

量産型のロボットのように、少しでも列からはみ出すと、ダメ人間というレッテルを貼られます。

フィンランドの学校は、子どもたちが何をしたいか、何になりたいかを重要視して、その子の個性を伸ばせるような授業を組む。

でも、日本の教育はそうではないですよね。

個性や特技を尊重するより、出るくいは打つ、というやり方です。

こんな環境でのびのび成長できる人が、いったい何人いるのでしょうか?

日本の学校狂育のやりかたは、子どもの才能の芽をつぶすことはしても、それを大きく育てることはできません。

おわりに

私は、好奇心が強く、なんにでも疑問を持つ子どもでしたが、学校では、なぜ?と聞いても納得のいく答えがもらえないことがとても多く、とても生き辛かったのを覚えています。

そのうち、もう疑問を持つことすら、無駄なのだと思うようになりました。

大人たちは、納得のいく答えをもつどころか、私たちが疑問に思うことを、疑問だと思わないのです。

時代がかわり、果たして学校の環境は改善されたでしょうか。

私はそうは思えません。

確かに生徒の立場は昔より強くなった。

だけど、横並び出るくいは打つ、というやり方は変わっていないし、昔は無かった新たな問題も出ています。

何より、学校にいく、という選択肢以外に、子どもたちがもっと自由に才能や個性を伸ばせる道が、もっとたくさんあって然るべきではないでしょうか。

現に、学校に行かず、ホームスクーリングで勉強している子どもを見ると、他人の比べることもなく、自分のペースで楽しく過ごしています。

また学生の頃に戻りたいなんて思わないけれど、もし戻るとしたら、学校にかよう以外の選択肢を今度こそ取りたい。

そして、もし学校に行くなら、「窓際のトットちゃん」に出ていたトモエ学園みたいな、自由でやさしい学校へなら喜んで行きたい。と思うのです。

 

ごきげんよう、ジジです。

桜も散るこの季節、ようやくあたたかくなってきましたね。

寒さが苦手な私としては、春の訪れは大歓迎で、うれしい限りです。

冬はおしゃれよりもまず、防寒機能を優先するので、見た目がダサかろうがムサかろうが、寒さしのげればなんでもいいわい!という感じでしたが、気温が高くなってくると、出かけるときに着る服を選ぶのも楽しくなります。

そんな中でも、私が好きなアイテムは、ロングスカートです!

というわけで、今回は、私のロングスカート愛について、語ってみたいと思います♪

ロングスカートとは

ロングスカートとは、一般的にはひざ下より、床上に近い長さのスカートのことです。

よりひざ下に近い長さのスカートは、ミモレ丈といい、ロングスカートとは区別されます。

床上すれすれの超ロングは、マキシスカートともいいますが、これもロングスカートの延長線上にある形ですよね。

春夏は軽やかなコットン素材やポリエステル、秋冬はニット生地のロングスカートもあり、一年中でも着ることができます。

ロングスカートの歴史

まず、スカートは、衣服としてはパンツ・ズボンよりも歴史が古いことは確かです。

その理由は簡単。服の構造からいって、スカートの方が単純だから。

最初はみんな、まず一枚の布をつくり、それをただ巻き付けることで、肌を隠していました。

古代ローマ時代の映画などをみればわかりやすいけど、男性も女性もみんな、ゆったりしたローブをまとっていて、ズボンなんて誰もはいていませんでしたよね。

ズボンがはじめて世に登場したのは、中世ヨーロッパ時代のようです。

それでも、女性に限っては、ずいぶん長いことスカートをはく時代が続きました。

スカートの形こそ、丸くなったり膨らんだり、装飾の流行もあって、目まぐるしく変化したけれど、女性がスカートをはく習慣は、古代からずーっと変わっていない、といえます。

ファッションや時代の移り変わりとともに、膝丈やミニスカートも出てきましたが、ロングスカートと比べたらまだまだ歴史は浅いです。

「膝上」スカートですら、登場したのは、1960年代に入ってからだそう。

考えてみれば、何百年も前から、この現代にいたるまで、いまだに日常的に女性が着用する服の形態って、ロングスカートくらいではないでしょうか。

それってなかなかすごい気がします。

だって、それだけ普遍的な実用性と、根強い人気を兼ね備えている、ということなのですから。

ロングスカートのココがいい!

それでは、ロングスカートの長所をあげていきましょう。

①体形を隠せる!

実は、私自身、最近までどちらかというと、スカートよりパンツ派でした。

歩いたり走ったり、動きやすいし、ヒラヒラしないから、汚れることも気にしなくてよい、というのが理由でした。

しかし、ある時、旅行先で撮った自分の写真を見たとき、気付いたのです・・。

パンツスタイルって、自分の体形がモロに出るんだな・・って。(-_-;)

・・いや、今更気付くなよって感じですが、ふだんめったに写真を撮らない(撮らせない)ので、本当に気付かなかった。

しかも、撮り方にもよりますが、写真ではカメラのレンズに対する自分の立ち位置によって、足の太さ・長さの見え方もかわってきますよね。

端っこに写っていたら、とくに太く見える気がします。

自分だけならともかく、集合写真になるとみんなで共有するので、どんなに不細工な写り方であろうと修正もできません。

ていうか、写真で写っている画像こそが、実際の他人から見た目に近いのかもしれない・・と思うと絶望しかないのですが(泣

あと、お尻!

パンツだと、後ろから見たら、お尻の形や位置も、まるわかりなんですよね・・。

自分では見えないところだから、よけい恐ろしい。

・・・

しかぁーし!

ロングスカートなら、そんな心配、無用です♪

これがあれば、何も気にする必要はない。

太かろうが短かろうが、足もお尻もすっぽり隠してくれて、人目を気にせず、歩けます。

なので、精神衛生上もたいへんよろしいようです笑

②夏涼しく、冬暖かい。

スカートって、夏は歩くたびにヒラヒラと揺れて空気を通してくれるので、とても快適です。

しかもロングスカートなら、太陽熱も防いでくれて日焼け防止にもなるし、ミニスカートやパンツ類より涼しく過ごせます。

ロングスカートをはいたことない人からすれば、暑そうに見えるかもしれないけど、太陽光線がじかに肌に当たる方が、ジリジリ焼かれる感じがして熱いですからね・・。

素材さえ選べば、ロングスカートほど夏にふさわしいものはない気がします。

そして冬も、スカートの下に厚手のタイツやレギンスなど、たくさん着こめて防寒できるので、意外と使えます。

タイツの上から、さらに毛糸のパンツやレッグウォーマーを重ねることも可能(笑

これがズボンになると、よほど余裕のあるワイドパンツとかでなければ、重ねばきなんてとてもできません。ぴっちぴちのむっちむっちになっちゃいます。

③女性らしさが出せる

ひらりと揺れるスカートは、女性らしさを演出するのにもってこいです。

年齢問わず着れるロングスカートは、デートのときにも最適だと思います。

大人の女性がきれいに着こなせば、本当に上品に見せることもできるし、柔らかい雰囲気を醸し出すこともできます。

定番の黒白ベージュだけでなく、パステルカラーの優しい色、フレア、プリーツなど、何枚か種類を持っていれば、その日の気分にあわせて、おしゃれを楽しむことができるので、おでかけの万能アイテムといえるでしょう。

④トイレのときラク

これは賛否両論ありそうですが、ロングスカートなら、下からガバっとたくしあげて、腕に挟んで用を足せばいいので、ズボンよりも私は楽です。

パンツ類の場合、とくにゆったりめのものは、下の床についてしまわないように、まず裾を折り返すなど工夫が必要なことがあります。

とくに気を遣うのは、和式トイレの場合。

いまだに都会の駅構内でも、古いタイプのトイレは和式しかないことがあり、トイレの周りが結構な確率で、濡れて汚れています・・。

ズボンなら、和式トイレに入れば、裾上げは必須。

だけどスカートなら、そんな手間や心配はいりません。

ただしきちんとたくし上げないと、ズボン以上に悲惨なことになりかねないから、そこは気をつけなくてはいけませんけどね!

おわりに

どちらかといえば興味のなかったロングスカートですが、今や私にとってなくてはならないものになりました。

もちろん、あまり長すぎると、階段で踏みそうになったり、後輪にカバーのついてない自転車だと車輪に巻きこまれてしまったりということが無きにしも非ずですが(汗)・・それを差しひいても、ロングスカートにはたくさんの魅力があります。

今季は、ラベンダーカラーや、菜の花をイメージした優しいイエローのロングスカートもたくさん出そろっていて、見てるだけで楽しめます。

これから少しずつ、手持ちのロングスカートのバリエーションを増やしていけたらな~と思ってます。

ごきげんよう、ジジです。

大阪に住み始めてから、私も自転車によく乗るようになりました。

土地の形状的に、大阪は坂道が少なく、自転車に乗りやすいところです。

近くのスーパーに行くのにも、自転車があれば便利だし、とても重宝しています。

しかし、日常的に自転車に乗る人が多いぶん、マナーを無視した自転車乗りの目に余る行動も目立ちます。

今回は、私が実際に何度も目にした、そんな「悪い」例の自転車について、取り上げることにしました。

危険+迷惑な自転車

暗くなってもライトをつけない!

私は自転車に乗るとき、夜はもちろん、陽が落ち始めた黄昏時からライトをつけます。

ところが、大阪ではライトをつけない自転車が意外に多く、驚いたと同時に怒りも覚えました。

ライトは、自分の前方を見やすくするという役割だけではありません。むしろ、暗いとき、他人が自分を見やすくするようにしてあげる、という、もっと大切な役割があるのです。

とくに向かい側から、自転車よりもっと強い自動車のライトが照っている状態では、対向にいる無灯火自転車は完全に逆光になり、まったく見えない、ということが起こります。

私は何度、無灯火自転車にヒヤリとさせられたかわかりません。

注意散漫な子供や目の悪いお年寄りなどは、もっと危ない目にあうのではないでしょうか。

ただライトをつけていさえすれば、相手が自分を確認しやすくなり、危ないと思ったら、よける準備をすることもできるのに、それをしない。

お互いに事故を防ぎ、危険を回避するための最低限の気遣いが、なぜできないのでしょうか。

意地でも並走したがる!

カップルとか友達同士とか、2,3人のグループで全員が自転車に乗っている場合、会話を続けたいのかなんだか知らないけど、意地でも並んで走りたがるのは一体・・??

もし広い道路で、自転車に乗っているのが彼らだけで、十分なスペースが前後左右にあるのならば、並走しててもよいでしょう。

しかし、周りに歩行者や他の自転車が見えたなら、状況に応じて、一列に並んでそこを通り過ぎるとか、工夫するべきです。

人が二人並んでるわけじゃない、自転車が二台も三台も並走するって、どんだけスペースとると思ってんですか。

それなのに、会話が途切れるか、離れたら死ぬかのような勢いで、並んだまま走り続けるもんだから、対向の歩行者が隅に追いやられながら、仕方なく自転車を避けなくてはならないって・・おかしいでしょ??こんなの

携帯見ながら自転車!

これはもう・・最悪のパターンですね。これで死者が出てるんだから。

あれだけニュースになって、取り締まりも強化してるとはいえ、まだまだこんな人、たくさんいます。

スマートフォンを片手にチラチラ見ながら、空いてる手で片手運転・・危険極まる。

こんな連中はいっぺん死ねばいいのですが・・死ぬのは、悲しいかな、この連中にぶつかられた方なのです。

大阪だけでなく、自転車に乗る人口が多ければ多いほど、マナー違反者も増えるとは思いますが、それにしてもその数の多さには辟易します。

なぜマナー違反自転車が多いのか?

なぜこれほど、危険な自転車の乗り方をする人間が多いのでしょうか?

自転車に乗る人が増えてきただけ、という単純な原因だけではないと思います。

やはり、個々人の、相手に対する気遣い、思いやり、想像力が、著しく欠けているのだと、言わざるを得ません。

その中でも、私は、最も想像力が大切だと思っています。

例えば、私の場合、最初に自転車に乗り始めた頃は、これまでそんな生活をしていなかったために、ライトをつけ忘れる、ということがよくありました。

暗くなっても、都市部の大通りは明るく、無灯火でも、確かに、自分の目からは周りがよく見えていたからです。

周りが明るすぎて、自分がライトを点けているのかいないかも、わからないくらいでした。

ところが、ひとたび人通りの少ない住宅地や、大通りから外れると、暗い服の歩行者や、無灯火自転車が、こちらからは非常に見えにくいことに気付きました。

つまり、私も、ライトをつけなければ、他人からそのように見えているのだと気づき、それからは必ず、暗くなり始めたら、ライトのスイッチをONにするようになったのです。

ここに自転車がいるよ~と、相手に気付いてもらうために。

私がもし、自分目線だけで物事を見て、「明るいし良く見えるから、ライトはつけなくていいや」と思うなら、それこそ今でも、無灯火運転を平気でしていたかもしれません。

何かひとつのことを発見したら、それを相手目線でも考えてみる、という立場の置き換えが必要であり、それには想像力が重要になってきます。

柔軟な想像力が低下している人は、いろんな視点から物事を見ることができず、最近はそのような人が増えているのではないでしょうか。

加えて、自分さえよければいい、という考えの人もいます。

それはそれで結構ですが、自転車で公道を走る以上、自分のせいで他人にケガを負わせるかもしれない可能性があるのだから、第三者の存在を無視することはできないのです。

好きに、自由に、なんの制限もなく自転車に乗りたいなら、無人島にでも行くしか方法はありません。

まとめ

自転車に乗る人は、それが一歩間違えば凶器にもなるという事実を自覚して、安全運転に努めなければいけませんよね。

いくら法律で取り締まったりしても、警察が24時間、危険な自転車を見張るわけにはいかない。

だから、私自身も含め、ライトにしろスマートフォンにしろ、自転車に乗る人は、もっと自分で気を付けていかなくてはならないと思います。

お互い楽しく、安心して自転車に乗るためにも、最低限のマナーは身に着けていたいものです。

ごきげんよう、ジジです。

さて、昨日に引き続き、落ち込んだ時シリーズさっそく第二弾「猫をモフる!」について、解説していきます。

うちにいるのが猫なので、ここでは猫について書くわけですが、モフらせてくれるなら、それが犬でもウサギでもヤギでもモルモットでも!!いいわけです。

どんな名医もかなわない動物たちの癒しのパワー。私の人生には絶対に、なくてはならない、強力な心の特効薬です。しかも副作用一切無しのネ。

動物が与えてくれる癒しの効果

アニマルセラピーという心理療法が確立されているくらい、動物とのふれあいは、気分の落ち込みをなおすのに十分な効果があります。

彼らの澄んだ優しい目にみつめられて、柔らかな毛、あたたかい体を触れば、脳内の幸せホルモン「オキシトシン」が分泌され、人はものすごい幸福感に包まれるわけです。

気分の落ち込みどころか、高血圧や心臓病にまで効果があるといわれており、実際に科学的な研究もなされています。

本格的なアニマルセラピーは、トレーニングされたセラピストや動物と行うけど、自宅にわんこや猫がいれば、彼らが毎日そばにいて、天然セラピーをしてくれるという・・なんて贅沢。

また、自分が守らなくてはいけない存在がいると思うだけで、人は自分自身を叱咤激励することができます。

猫がいれば、「この子たちを食べさせていくためにがんばらねば・・落ち込んでる暇などない!」と、自分に喝を入れられるのです。

動物は言葉こそ我々と交わすことはできませんが、人間の感情を読み取る能力に非常に長けています。

うちの猫たちは、私がしんどいとき、そっと側に来てよりそってくれる。

そんな純粋な優しさや愛情には、いつも感謝せずにはいられません。

落ち込みを忘れさせる猫の魔力

猫好きな人なら共感してくれること請け合いですが、猫は、ただそこにいるだけで可愛く、眺めているだけで口元が綻んできます。

体はとてもやわらかく、抱っこすれば、ピタリと体に密着するような感触。

ゴロゴロと喉を鳴らして甘えてきたら、自分の気持ちはさておき、ともかく思い切り撫でてあげたくなる。

そんなときは、落ち込んでることも忘れてしまいます。

ちなみに猫のゴロゴロは、非常に規則正しい一定の周波数(25~30Hz)で、骨密度を上げ、病気やケガの修復を早めるといわれてます。実際にはこれ以外でも、まだまだ解明されてない未知の効能が山ほどあると私は思いますが。

うちにはグータンとちーにゃんのふたりの猫がいますが、グータンの方は、体も大きくて、おなかに顔をうずめたりしても怒りません。

辛いとき、いつもグータンのおなかに顔をつけて、思いっきり匂いをかいだり、スリスリモフモフさせてもらうと、もうそれだけで気持ちがほぐれます。

私はこのおなかを、「幸せおなか」と呼んでます。

幸せがいっぱい詰まってる、「幸せおなか」にモフモフしたら、本当に心が落ち着いて、安らかになれるのです。

人間は柔らかい、感触のよいものを触ると落ち着くといいますが、まさにそれ。

猫の柔らかさ、あたたかさは、何物にも代えがたい地球の財産です。

私の落ち込みなど、一瞬にして忘れさせてくれる、恐るべし猫の威力です。

まとめ

私は猫の前は犬と暮らしていましたが、その子にも本当に助けてもらい、落ち込んだとき、どれだけ救われたかしれません。

今は猫がいて、やはり毎日、癒しパワーをもらっています。

動物と触れ合う機会が多い人は、その癒しパワーを日々感じているはず。

動物が自宅にいないならも、キャットカフェやドッグカフェ、動物保護施設、あるいは牧場など、動物を身近に感じられる場所に出かけるのもよいでしょう。(ただしペットショップはいろいろ悲惨なので、行かない方がヨイ!)

触ることが苦手なら、ただ眺めているだけでもいいのです。彼らの可愛い、ユーモラスな仕草は、一日中見ても飽きません。

猫の持つ癒し効果で、落ち込みがどれだけ改善するか、ぜひ体感してほしいと思います。

今日も私は、「幸せおなか」にお世話になってます。

 

 

ごきげんよう、ジジです。

人間生きていたら、気持ちが沈んで落ち込むときもありますよね。

そんなとき、私自身がやっていることのひとつが、「靴を買う」こと。

今回は、「落ち込んだとき」シリーズ第一弾として、この「靴を買う」行動について、解説してみたいと思います!

 

ショッピングの効果

ショッピングは、多くの人にとって、単純で、手軽な気分転換の方法です。

買うものの値段が高い安いかは関係ないし、べつに何かを買わなくても、ただどこかに出かけて、自分が好きな店で、好きなものを眺めるだけでもいい。

あれこれ見ていたら楽しくて、その間だけでも、いやなことを忘れられます。

私の場合、生理周期にあわせて、1か月の間に気分がジェットコースターのごとく変動することに加え、季節の変わり目はとくに、体も心も不安定になりがち。

そんなときに、買い物は、よい気晴らしになってくれます。

気に入ったものを選んで家に連れて帰る、という行為は、とても幸せな気持ちにさせてくれるものです。

破産するくらい買いまくってしまう買い物依存症になる人は、まるでヤクを求めるジャンキーみたいに、気持ちよさを味わうことがやめられなくなってしまうのでしょうね。

それくらい、特に女性にとって、買い物がもたらす効果ってすごいものがあります。

なぜ靴を買うのか?

落ち込みを解消するために買い物をするなら、私は洋服よりも、靴を買うことをおすすめしたいです。

その理由は、誰もが一度は聞いたことがあるかもしれない、この名言・・

「素敵な靴を履けば、素敵な場所へ連れて行ってくれる」

この言葉をきくと、実際にすぐに履いてどこかに出かける予定がなくても、新しい靴がラッキーアイテムになってくれるような気がしてきませんか?!

落ち込んでいるときって、外出するのも億劫になり、うちにひきこもっていたくなるけど、ピカピカの靴があれば、これを履いてどこかに出かけなきゃもったいない、という気持ちにもなる。

それに、靴は服と違って、室内でさっと試し履きができます。

洋服だと今着てるものを脱いで、試着しないといけない。

でも靴なら、靴下の着脱だけでいいから簡単。ズボラリアンな私にはもってこい。

落ち込んでるとき、服を着替えるのさえ面倒に思うこともあるけど、靴ならすぐに履けて、「ああ可愛いな~」って眺めることができるわけです。

試着するのがラクだったら、うちに帰っても、買った時の楽しい気持ちを持続させやすいですよね。

今は時期的に、ピンクやイエローなど、春らしい明るい色の靴がたくさんそろっているから、色のもたらす心理的効果も期待できると思います。

まとめ

気分転換のしかたは人それぞれですが、中には、どうしたらいいのかわからないって悩んでいる人もいるかもしれません。

そんなときは、思い切って靴屋さんをのぞいてみてください。

気に入った一足に出会えたら、その靴が良い場所、よい人に出会わせてくれるかもしれません・・たぶん。